「わたしのマンスリー日記」第17回 「死なないでください!」

 近年の著作では奥付のプロフィール欄に「作家」とか「地名作家」と書くことが多くなりましたが、もともと私は教育学者でした。千葉大学から筑波大学に至るまで私は一貫して社会科教育を基盤にした研究者で、メインの仕事は小中高等学校の社会科教師の教員養成と、大学の社会科教育の研究者の育成でした。私の教え子や弟子たちは全国に数えられないほどいて、それぞれ活躍しています。
 ちなみに、私の地名研究は千葉大学時代に学生たちと社会科の授業開発をしたことに始まったもので、地理学や歴史学、民俗学などを生半可に応用した地名研究とは根本的に異なっています(失礼ながら)。私はそのことを誇りに思っています。その背景には日本民俗学の始祖である柳田國男の学問論と教育論があるのですが、これについては機会を改めてお話しすることにしましょう。いずれにしても、私の地名本がわかりやすく面白いと評されるのは、地名研究が〈教育的ニーズ〉に基づいているからです。
 1987年に私は全国の教師を対象に「連続セミナー 授業を創る」という会を組織し、授業づくり運動を開始しました。若い教師たちに学びの場を提供し、共に成長しようというのが運動の趣旨でした。
私はこの運動のためにあらゆる手を尽くしました。この会発足後に小学校低学年に「生活科」という新教科が設置され、その授業づくりにも手を伸ばしましたので、大忙しとなりました。この運動に加わってくれた教師たちは、例外なく「子どもたちのために学ぶことをいとわない教師」でした。
山口さんに感じたインスピレーションとは、まさにこの連続セミナーの教師像に重なるところから発したものでした。

「人生最大の岐路」

 山口さんと本格的な交信を始めたのは、今年(2024年)になってからのこと。山口さんがFacebookに「私は、つらくて消えてしまいたいと思っていました。けれど、谷川先生が私を見つけてくださいました。谷川先生の言葉は、私の心に優しい光をふりそそいでくださいました。必ず乗り越えます」と書き込んだのは、1月17日のことでした。
 私は彼女に特別な言葉を投げかけたわけではありませんし、特に彼女を「見つけた」わけでもありません。ただ当初から、彼女には「何かあるな……?」と感じていたことは事実です。そんな意味合いで今後交流しましょうと声をかけたに過ぎません。しかし、それが教頭職を辞するか否かといった大事であるとは夢にも思いませんでした。
 私が入院で生き地獄を見たのは2月1日(木)から15日(木)までの2週間でしたが、この期間に山口さんも人生を変える一大決意をしたというのです。そのドラマをFacebookとメールでの交信で紹介することにします。
 山口さんから悩みを打ち明けられたのは2月4日(日)のことでした。私が苦痛にのたうち回っている最中でした。

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